中華名将録
中国の歴史における名将たちを史書から発掘、一日一人か二人のペースで翻訳し、紹介していこうというもの・・・でしたが、最近は更新滞りがち。とりあえず長い目で見ていただけると幸いです。

2009/11 | 123456789101112131415161718192021222324252627282930

ブログ内検索
「次は馮勝か王守仁改訂版」とか言ってた岩城ですが、また違う次期からです。胡宗憲と同時期の人ですね。胡宗憲は趙文華、厳嵩という奸臣にとりいって上手く世渡りした(といっても後で獄に落とされましたが)わけですが、こっちは趙文華に恨まれて獄に落とされたり戦功を過少報告されたりと不遇です。しかし明代には“賊”ってのが非常に多いわけですが、彼らを賊と呼ぶのに少し抵抗がある岩城です。政治が正しく行われず搾取するだけされて戦があったら「お前自衛隊入れ」みたいなこと言われるんですからふざけんなバカって感じですよ。だからこの時代の歴史書は本来二つあってしかるべきだと思うのです。それはどの時代でもなんですが、この時代は特に「民衆側の英雄」と「朝廷を支えた名将」を別アングルから取材していただきたかったなと。ここまで民衆に支持されなかった王朝も珍しいんじゃないですかね、明朝(の中期以降。“大礼”の動乱以降)。あと《明史》の特徴として、それ以前の王朝とは桁違いなほど戦争での首級が少ないです。誇らしげに斬首600とか。明朝における岩城の最愛武将・馬芳ですら生涯にあげた首級は総計で1万余。これは昔の歴史書が誇大な数を書いてあるんじゃないかと勘ぐってしまいますが、そのへんどーなんでしょうね。岩城の手持ちの資料ではわかりません。ま、駄文はこれぐらいにして、本文どーぞ。

曹邦輔(そう・ほうほ。?-1576)

 曹邦輔は字を子忠といい、定陶の人です。嘉靖11年の進士で、歴城、南和などの知事を務め、青天白日なひととなりで知られました。抜擢されて御史、巡視河東塩政となり、のち陝西巡察。総督の張珩らの詐称を弾劾して功があり、その部曲の兵を充てられて湖広副使、さらにのち補河南按察使を拝命しました。

 ときに柘城にて盗賊・師尚詔が造反し、帰徳を陥とします。検校の董倫は民兵を率いて市街戦を繰り広げ、自らの手で数名の賊を斬りましたが結局大勢を覆せず、最後は妻の賈氏および子供らとともに殺されました。賊軍は柘城に取って返してこれを陥とし、挙人の陳聞詩に主帥の任を無理矢理なすり付けます。陳聞詩は当然のようにこれを拒絶。すると賊は陳聞詩の従者をブッ殺して脅すという暴挙に出ます。陳聞詩は賊を騙って曰く、「我、必ず行くを欲す。殺すなかれ、火をつけるなかれ」といえば賊はこれを許諾し、陳文詩を馬上に攫います。陳文詩はその後3日3晩の間水も食料も摂らず、鹿邑で隙を見つけて自ら縊り、死にました。かりそめの旗頭を失った賊軍ですが貪欲な膨張志向はとどまるところを知らず、太康を囲みます。都指揮・尚允紹は鄢陵でこれと戦いますが大敗。尚允紹は捲土重来を期して霍山で賊を撃たんとして、結局また囲まれて進退窮まります。そこに曹邦輔が颯爽登場、士卒を奮起させ突撃、賊を大いに破り斬獲600余を数えました。曹邦輔は莘県に逃れた師尚詔を擒え、賊は決起より40日、一府八県を破り十余万人を殺しました。曹邦輔はこの大賊を相手に死戦して賊兵を殲滅し、皇上から恩賜の詔と銀幣を賜与されます。この功により山西右参政に抜擢され、まもなく浙江按察使に昇進しました。

 嘉靖34年、右検都御史を拝命し応天を巡撫。このころ倭寇が柘林に集まります。その朋党が紹興から出て杭、巌、徽、寧、太平などを剽掠して南京まで逼り、凓水、宜興を抜くに至りました。官軍がそれに逼ると滸墅に逃れます。副総兵の兪大猷、副使の任環らがこれを追い詰めてしばしば叩き伏ましたが、柘林の賊は逼塞するどころか陶宅まで前進します。曹邦輔は副使の王崇古とともにこれを囲みます。僉事の董邦政、把総の婁宇もこれに協力して賊を包囲しました。賊は太湖に逃げ込みましたが官軍は徹底的にこれを追って殲滅、一連の戦いの中で副将の何卿が壊滅的打撃を受けると曹邦輔はこれに代わり、大砲をもって敵の船を破壊、斬獲600余を挙げます。ここで奸臣・趙文華がその功を奪おうとしたので曹邦輔は先んじて捷報を京師に送り、かわりに趙文華の深い恨みを買うことになりました。その後浙江巡按使の胡宗憲とともに陶宅の賊を攻め、諸営ことごとくこれを抜きます。曹邦輔はさらに進軍して倭寇の根を絶つべきだと主張しましたが胡宗憲の協力が得られず、敗北。俸給を削られました。ここで趙文華が上奏して曹邦輔は強敵を避けて弱兵を伐ち、軍を誤らせていると讒訴。ここに総督の楊宜も曹邦輔は故意に命令を無視して勝手に動かしていると上奏するというオマケつき。給事中の夏栻と孫濬が熱意を持って言上した結果、曹邦輔に罪無しということになりましたが、京師に戻った趙文華が自分は賊の与党を全滅させてきたが曹邦輔は意図的にこれを殺さず生かし、官軍の利にならぬ真似をしたと上奏。皇上はこの報告をすこぶる胡散臭いと疑うも、趙文華は「賊を滅ぼすは簡単であるのに、提督は人にあらざるものたちを撫しようとして敗北を致しました。わたくしは昔から曹邦輔、夏栻、孫濬が媚び諂うを得意とする奸臣であることを知っております。今、東南の百姓は塗炭の苦しみと申します。免職してかの地に流すことをお勧めいたします」と吹き込みました。結果、曹邦輔は逮捕されて朔州に流されます。

 隆慶元年、楊博が吏部尚書になると曹邦輔は再び抜擢され、左副都御史になって理事院の事務を補佐します。進められて兵部右侍郎、軍旅理事。さらに左侍郎兼僉都御史、総督薊、遼、保定軍務に。万里の長城修築と兵士の訓練を言上、兵士が鍛えられていてこそ始めて辺境防御の役に立つもの、と説きました。まもなく給事中・張鹵の建議により曹邦輔は右都御史に、掌院事に。皇上が京師の兵備こそ重要としてさらに閲視の職を授け、軍事に通暁した大臣が後見人としてつけられます。召し返されて左都御史。まもなく恭順候・呉継爵の上奏で曹邦輔は閲視から提督に遷されました。

 さらにすぐのち、曹邦輔は南京戸部尚書に。督倉主事・張振選が命令を聞かず約束を守らないことを上奏し、「往古の執政は人の喜びを自らの喜びとし、吏に属して山を動かす矜持を胸の奥に隠していたといいます。堂上の官が惰弱で、身体を屈し意を降せば、それは主客転倒というものでありましょう。外にあって巡按御史の任にあり士門の誰もが知遇を望む者が、はたして人の賢愚を軽率に口にしてよろしいものでしょうか。害政はそこから始まるのではないでしょうか」穆宗はこれを然りとし、張振選を貶め内外の官の革新に着手しましたが、結局それまでの風潮を変えることは出来ませんでした。

 曹邦輔は老年をもって致仕を申し出ましたが聴かれず、万暦元年、京師における謁見の自由を許されましたが病を得て今度こそ致仕。その際北賊のシンアイを警戒し慎んで防備を固めることを言上しました。その3年後、病死。太子少保を追贈されます。

 曹邦輔は清廉にして峻厳、呉の地で逮捕されたとき、鈍官汚吏が彼の財産を奪い取ろうとしたときはそれを棄てて顧みることもありませんでした。官途にあること40年、家にはいまだかつて余財はなかったといいます。その旨が上奏されると皇上は詔を発し、右評事・劉叔龍の墓のそばに墳墓をつくり埋葬しました。

テーマ:中国史 - ジャンル:学問・文化・芸術

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://iwakitakayuki.blog119.fc2.com/tb.php/407-0e9ab045
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック