中華名将録
中国の歴史における名将たちを史書から発掘、一日一人か二人のペースで翻訳し、紹介していこうというもの・・・でしたが、最近は更新滞りがち。とりあえず長い目で見ていただけると幸いです。

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 こっから朱元璋即位後ですね。洪武帝と書いてもいいんですが慣れた言い方で皇上と書かせていただきます。しかし徐達って毒殺なんか病死なんかさっぱりわかりません。二次資料があればいいんですが、岩城の手元にある資料は明史ただひとつ。とりあえず私見を言うと、朱元璋としても徐達を毒殺するメリットないでしょう。だって徐達は享年54歳。朱元璋もまだ若かったですし、大粛清の悲劇は徐達とは無関係では? という風に思います。胡惟庸の丞相就任に真っ向から「器に非ず」と言ってますから連座して殺されたというのは無理があるのではないかと。李文忠とか劉基とかも、粛清されたのとは違う気がします。特に李文忠なんて朱元璋の殺戮政策に敢然と非を唱えて「すまんかった」と言わせた男ですから、貴重な諫言役を殺したとは思えんのですよ。

 太祖朱元璋、帝位に即位しての洪武元年、徐達は右丞相に任命されます。皇太子冊立に功あり、太子大傳を兼任。その間副将たる常遇春は東昌を下し、徐達と済南で会合し、楽安の叛賊を攻めて惨殺しました。このあたりの苛烈さが常遇春の徐達に及ばないところであろうと思われます。徐達は済寧に軍を動かし、水軍をもって長江を溯って汴梁を直撃、守将の李克彝を逃走させたうえ左君弼、竹貞らを投降させました。そのまま虎牢関を抜いて洛陽入り、元の大将・ダヤン・テムルと洛水北で戦いを繰り広げこれを撃滅します。この情勢を見て梁王・アルチンは河南をもって降り、徐達は勢いに乗って嵩、陝、陳、徐の各州を平定、一気に潼関を衝きました。いきなりの猛攻に李思斉は鳳翔に逃げ、張思道は鄜城に逃げ込みます。徐達は潼関を抜け、攻め手を休めず西のかた華州へと進軍しました。

 皇上は捷報を聞いてみずから汴梁まで赴き、徐達を行在所に呼びつけて酒を振舞い、ねぎらって今後の北伐計画について語り合いました。徐達が「大軍をもって斉と魯の地は平定され、河洛の敵も一掃されました。王保保が逡巡している間に潼関はわが軍の手に落ち、李思斉らは周章狼狽して西に逃走するに至った次第。元軍の援軍はすでに絶え、今勢いに乗じて元都を直撃すれば戦わずしてこれを占拠することが可能でありましょう」とか言えば皇上は「それまさに善計なり」と。徐達はまた一歩踏み込んで「元都を攻め克ち、彼らの君主が北辺に逃走したとあらば、窮した敵を追うべきでありましょうや?」と問い、皇上は「元の国運はすでに衰え、あえて追わずとも自滅あるのみ。窮兵に手を出してそれに煩わされるべきにあらず。敵衆の辺塞を越えれば追わず、防備堅牢に構えて境界を守って敵の侵入する隙を与えずば十分」と応えました。徐達は頓首してこの指示を拝命します。副将(記載されていませんが、常遇春ではないのでしょうか?)とともに河陰に軍を会し、軍を分けて裨将に統率させ、長江以北の地をしたがえながら北上。護輝、彰徳、広平などの地を攻め下しました。軍を臨清にて会合させ、傳友徳を派遣して歩騎の道を開かせます。顧時にはそのまま水軍を率いさせて北上させ、一気に北へ。まず常遇春が徳州を攻め下し、徐達はそれに合流して長蘆を奪取、直沽を扼守し、大橋を建造して軍を進めます。水陸一挙に進発し、河西努で元軍を大撃破して通州に入りました。元の順帝は皇后・妃・太子を連れて北に逃亡、一夜が過ぎて徐達が斉化門に兵を並べると、元軍は守る寄る辺もない抵抗戦を繰り広げますが結局は敗北、しかし監国の淮王・テムール・ブケ以下、丞相・慶童、平章・シェンルピシ、プサヤン・ブケ、右丞相・張康伯、御史中丞・満川らはあくまで屈さず、徐達は彼らの硬直を惜しみながらも斬首しました。それ以外には一人たりとも殺していません。徐達は官戸に封をし、宮廷の書物宝物を押収し、張勝に兵千人を指揮させて宮殿を警護させるとともに後宮に宦官を派遣して宮女たちを保護し、士卒に暴虐暴行を厳しく禁じました。これにより官吏・民衆は普段どおりの安らかな日々を享受します。

 捷報を聞いた皇上は元都を北平府と改称、六衛を置き、孫興祖らを鎮守に残して徐達、常遇春には山西に元軍を追うことを命じました。常遇春は保定・中山・真定を下し、馮勝と湯和は懐慶を下して太行山を越え、沢州・潞州を陥とし、徐達は大軍を編成してそれに続きました。時に元のココテムルが雁門関から出陣、居庸から北平を撃つ構えを見せます。徐達はこれを聞き、衆将に謀っていわく「ココテムルは遠くから無理を推しての出陣で、必ず太原を空けているはずだ。北平には孫都督がおり、防備は十分に足りている。ここは敵の不備に乗じ、太原を直撃すれば、敵は進軍することも退去することも敵わなくなるだろう。つまりは虚を搗くのである。彼がもし西に兵を帰し太原を救わんとすれば、これを擒えること容易なり」諸将いわく「そのとおりであります」と。そこで兵を走らせて太原を襲うこととしました。ココテムルは保安でこの動きを知って急ぎ回頭、太原救援に向かいますが、徐達はそれを狙いすまして選抜した精鋭たちで夜間急襲、ココテムルはわずか18騎に守られて逃げ延びました。残りの兵は尽ごとく明に降り、徐達はそのまま太原を陥とし、勢いに乗じて大同を接収し、兵を分割、いまだしたがわぬ衆県を従え、山西を完全に平定します。

 洪武二年、軍を率いて黄河を渡りました。鹿台の地に至って元の張思道は遁走、徐達は奉元を下します。時を同じくして常遇春が鳳翔を落とし、李思斉を臨洮に駆逐したので、徐達は諸将に今後の軍事運動を謀りました。諸将は口をそろえて「慶陽は臨洮より陥としやすい。先に慶陽から攻めましょう」と言いましたが、徐達は「しからず。慶陽は堅牢な城と精兵を擁して容易くは陥とせぬ。臨洮は北を黄河、湟河に阻まれ、西を羌族らの夷狄に阻まれて、しかもその兵力は戦をするに足りず軍備を拡大する財力もない。大兵をもってこれを竦ませれば張思斉は逃げること敵わず、自縄自縛となる。臨洮を陥としさえすれば周囲の郡県も容易く降るのだ」として隴水を渡り、秦州を陥として伏羌、寧遠を下し、鞏昌に入ります。そこから右副将軍・馮勝を臨洮に派遣すれば張思斉は戦わずして降伏。さらに兵を分かって蘭州を攻め、元の豫王を放伐して残存勢力と輜重をことごとく自軍に接収しました。蕭関から軍を還しその途上平涼を攻め取ります。張思道は寧夏に逃げますがココテムルに捕らわれるところとなり、これを知った張思道の弟・張良臣は慶陽をもって明に降伏しました。徐達は薛顕を派遣してこの申し入れを受けますが、張良臣はすぐさま謀反、薛顕に傷を負わせたので徐達が出馬、これを囲みます。張良臣は今度は元に通じてココテムルに援軍を頼みますが、徐達は援軍ごと敵を破って慶陽を抜きました。張良臣親子は井戸に身を投げますが引き上げられ、街頭にて斬首。これにより陝西地方は尽ごとく平定されます。軍を還すと洪武帝の詔が下り、徐達には恩賞として白金文綺がたっぷり与えられました。

 功を論じて賞を行うに際して、折悪しくココテムルが蘭州に攻め入り、指揮使を殺害。副将軍・常遇春はすでに亡く、洪武三年春、皇上は再び徐達を大将軍に、平章の李文忠を副将軍に任じて出兵させました。両者は道を分かち、徐達は潼関から西に定西を直撃、ココテムルを追いたて、李文忠は居庸から東に大砂漠を越えて元朝皇帝を追うという作戦です。徐達が定西に到着するとココテムルは沈児峪に駐屯、徐達はこれに肉薄し、塁を隔てて交戦すること数日、ココテムルは精鋭部隊を派遣して保塁東南を攻撃、明軍の右丞、胡徳済は驚き慌てて処置なく部隊壊乱。徐達が駆けつけてこれを打ち払いましたが、敵襲に踊らされた胡徳済の罪状は明白。胡大海という功臣の息子ゆえに罪を免じられるかと思ったら大間違い、徐達は胡徳済以下その統制下の指揮者数人を檻に入れて京師に送り、衆人の前で斬刑に処すよう申し送りました。翌日、徐達は兵を整えて保塁を取り、死戦のすえココテムルを撃破、郯王、文済王以下国公、平章以下文武の臣860余人、将士8万4千5百余人、馬、駱駝ほか家畜巨万を捕獲しました。ココテムルはわずかに妻子数人を連れて和林まで落ち延びます。ちなみに胡徳済は皇上の意によって釈放され、皇上は徐達に書面をいたして「将軍が衛青を手本とするならあえて蘇建を殺すなかれ。穰苴よ朕に見えずして荘賈を殺すなかれ。将軍、規に則って彼を誅さんとするも、今廷議するに(わが姑たる胡大海の)信州、諸曁の功を鑑みるに誅すに忍びず。よって今後、将軍よこのことを言ってくれるな」と諭しました。まあ諭すと言うか「俺は贔屓するから文句つけるな」って感じなんですが。

 徐達はココテムルを破ったのち、すぐさま軍を率いて徽州から南の一百八渡を渡って略陽に至り、沔州を攻め下して連雲桟に進入、これを奪います。時を同じくして副将軍・李文忠が応昌で捷ち、元室の嫡孫・妃主に将相を捕えました。前後して捷報を報告して、軍を京師に還します。皇上は龍江まで出て彼らを迎えました。生涯にわたる武功により“開国輔運推誠宣力武臣”の称号と光禄大夫、左柱国、太傳、中書右丞相参軍国事の位を授けられ、改めて魏国公に封ぜられて禄高は5千石、ついでに世襲権も与えられました。翌年、徐達は徐熙らを率いて北平に赴き練兵調馬を行い、城池を修築し、軍民を解体して諸衛府に充て、屯所254個を置いて墾田1千3百頃を拓き、同年冬、召されて京師に還りました。

 連年春に出征し、冬に召されて還ることが徐達の常でした。上将の印璽を返還して休暇を賜与され、皇上の催す宴で痛飲し、一布衣の頃よりの兄弟と称されてひたすら恭敬謹慎します。皇上はかつて従容として「徐達の功労は大きいというのに、いまだ立派な屋敷を持てずにいる。こりゃ儂の旧邸をくれてやろうかいのう」といって呉王時代の旧邸をくれてやろうとしましたが、徐達は固くこれを固辞。その晩、皇上は徐達の家で休み、たらふく飲んで二人折り重なって床で眠りました。徐達は目が覚め酔いが醒めるとこの不敬に驚愕し、うつむき膝をついて自ら死罪を請いましたが、皇上はこれを許すどころか大いに悦んだものです。ここにおいて皇上は勅命を下し、旧邸の全面に徐達のための府を造らせ、その看板(坊)に“大功”の二文字を書きつけます。言及されてませんが、おそらく皇上自らが書いたものだと思われ信任のほどがうかがえます。胡惟庸は丞相に任ぜられると徐達との好を結ぼうとしましたが、徐達は彼の人となりを見て答えず、しかし徐達の門衛である福寿というオッサンが賄賂を受け取り徐達と胡惟庸の間を取り持つことを約束。徐達は福寿の罪を不問に付し、しかし皇上には胡惟庸に丞相の任は重すぎるとハッキリキッパリ断じました。のち病に倒れ、皇上はいよいよ徐達を大事に扱います。洪武17年、太陰が将星を犯すと皇上は「あれはまさか天が徐達を連れて行こうというの? 嫌よ嫌、嫌。そんなのってないわ!」と大いに怒りを発しましたが、徐達は来平に来てからというもの背中に毒瘤が出来てえらいこっちゃな状態で、癒えることなし。皇上は徐達の長男たる徐輝祖に勅を下して父の慰労に向かわせましたが、翌年2月、病篤くして徐達はついに病没しました。享年54歳。皇上は彼の喪の期間政務を休み、その心痛は推して知るべし。皇上は徐達を中山王に追封し、武寧(戦いによって安寧をもたらす)と謚し、彼の子、孫に到るまで三世を王に封じました。鐘山北面に埋葬、皇上は自ら筆を取って墓に碑文を書し、また大廟に倍葬し、功臣肖像の廟において位階第一と號しました。

 徐達は言葉少なく謹慎、軍中にあって一度出した命令を二度出すことはなく、諸将はみな彼を崇敬して、徐達自身も威風凛々、皇上の前では恭敬謹慎ながらあえて諂いの言、国家のためにならぬ言を吐くことがありませんでした。またよく士卒を撫御し、かれらと艱難辛苦をともにして恩特を施し感謝を受け、かれらは死すとも厚恩に報いようと勇み立ち、これゆえに向かうところ必ず捷つ、という常勝軍団が出来上がったといいます。部隊を率い彼らに約束履行させることはなはだ厳しく、彼が陥とした都城は大都2、省3、群邑100余に及び、そしてその何処の町でも市井の民は平時と変らぬ生活を送り、百姓は戦時の苦難にさらされることがなかったといいます。これこそ非常に高い統率力の現れでしょう。朝廷に帰還するや一人で家に帰り、儒者を招いて礼遇し、終日に渡って談義に華を咲かせたそうです。皇上が徐達を評して曰く、「命を受けて出征し、成功して凱旋するも驕らず誇らず、女色を遠ざけ財貨を掠め取らず、正直であって瑕瑾なし。潔白にして明瞭なることを日月が知るは、ただひとり大将軍のみ。」と、言ったものです。

テーマ:中国史 - ジャンル:学問・文化・芸術

コメント
この記事へのコメント
どうも、コメントさせていただきます。
おお、列伝復活ですか。お忙しいのにご苦労さんです。明朝の徐達からと。

>ココテムルは精鋭部隊を派遣して保塁東南を攻撃、明軍の右丞、胡徳済は驚き慌てて処置なく部隊壊乱。

 田中芳樹さんが言っていた徐達の敗戦てこれなんですかね? これ以外だったら徐達は不敗で死んだんですか?? 田中さんはあまり読み込んでない???

>しかし皇上には胡惟庸に丞相の任は重すぎるとハッキリキッパリ断じました。

 劉基も徐達もごぞってダメ押ししているのに何で太祖は丞相に任じたのかな?  李善長の淮西派閥の押しがあったかも。
 
2008/10/05(日) 12:07:12 | URL | 五遷・主簿 #SFo5/nok[ 編集]
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